Friday, September 12, 2008

Et Son Merveilleux Essai

新聞には出会いがあります。ネット全盛のご時世で書店が懸命にその役割を果たしていると同様に、時には社説から、時には文化面から、新聞には素晴らしい出会いが散りばめられてあります。ニュースを把握するならばネットで充分。それはその通り。けれど新聞には思いも寄らない物事を知るミディアムだということを時に思い知らされる時があります
これはこの夏の旅行で偶然手にした8月のある日付の福井新聞の社説で出会った詩人萩原朔太郎著の随筆。


 「先日大阪の知人が訪ねて来たので、銀座の相当な喫茶店へ案内した。学生のすくない大阪には、本格的の喫茶店がなく、珍らしい土産話と思つたからである。果して知人は珍らしがり、次のやうな感想を述べた。先程から観察して居ると、僅か一杯の紅茶を飲んで、半時間もぼんやり坐つてる人が沢山居る。一体彼等は何を考へてゐるのだらうと。一分間の閑も惜しく、タイムイズマネーで忙がしく市中を馳け廻つてる大阪人が、かうした東京の喫茶店風景を見て、いかにも閑人の寄り集りのやうに思ひ、むしろ不可思議に思ふのは当然である。私もさう言はれて、初めて喫茶店の客が「何を考へて居るのだらう」と考へて見た。おそらく彼等は、何も考へては居ないのだらう。と言つて疲労を休める為に、休息してゐるといふわけでもない。つまり彼等は、綺麗な小娘や善い音楽を背景にして、都会生活の気分や閑散を楽しんでるのだ。これが即ち文化の余裕といふものであり、昔の日本の江戸や、今の仏蘭西の巴里などで、この種の閑人倶楽部が市中の至る所に設備されてるのは、文化が長い伝統によつて、余裕性を多分にもつてる証左である。武林無想庵氏の話によると、この余裕性をもたない都市は、世界で紐育と東京だけださうだが、それでもまだ喫茶店があるだけ、東京の方が大阪よりましかも知れない。ニイチエの説によると、絶えず働くと言ふことは、賤しく俗悪の趣味であり、人に文化的情操のない証左であるが、今の日本のやうな新開国では、絶えず働くことが強要され、到底閑散の気分などは楽しめない。巴里の喫茶店で、街路にマロニエの葉の散るのを眺めながら、一杯の葡萄酒で半日も暮してゐるなんてことは、話に聞くだけでも贅沢至極のことである。昔の江戸時代の日本人は、理髪店で浮世話や将棋をしながら、殆んど丸一日を暮して居た。文化の伝統が古くなるほど、人の心に余裕が生れ、生活がのんびりとして暮しよくなる。それが即ち「太平の世」といふものである。今の日本は、太平の世を去る事あまりに遠い。昔の江戸時代には帰らないでも、せめて巴里かロンドン位の程度にまで、余裕のある閑散の生活環境を作りたい。」ー「喫茶店にて」萩原朔太郎著


昭和50年代には(人口との比率で)喫茶店の多い街ナンバーワンだったと言われる地元福井の新聞らしい自社記事。福井市だけでなく日本全国、その数もめっきりと減少している喫茶店とかつてのゆとり教育を掛けた、日本海の隅っこに位置するかつての喫茶店街から、都市の生き急ぐ現代性に立派に意思提示を発信する秀逸な記事でした。そして、その記事を読みこの随筆を知り得たその時間こそ真に自分にとって余裕のある閑散の生活時間でした。

二年も連続で総理大臣が退くこの現代で、物価だけがひたすら上げられ苦しみながら自国のトップを決める投票権利さえも持てずにただただ生活に追われている僕ら国民は、自民総裁選の街頭演説になんか別に目を向ける必要も無いと思います。
それでも新聞はもっと読んだ方が良い。知識をつけるためだけが目的ではないはずだから、文化的な余裕を過ごすための喫茶店が今ではやっぱり巨大チェーン店なのだとしても、そこで新聞を共にする時間は現代の文化的余裕性につながるはず。

アジア諸国の発展が著しくとも、20年も前にそんな経済成長は終えてしまっている我が日本に必要なのは経済政策の巻き返しだけでなく、少なくとも国民にもっと必要なのは文化的余裕。だからもっと遊べ。芸術に勤しめ。ガソリンが高いなら車くらい放棄しろ。

なんだか最近は無性に腹が立つ。

I hope the coup d'etat would come.

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