NEWS23といえば、坂本龍一の名曲「Put Your Hands Up」があった。 今思えば、この曲は僕にとっての「きよしこの夜」だったんじゃないかと思う。今でも平和を思う子守唄のように聴こえる。ここにクリスマスの装飾はなくとも、ピアノの響きと優しいメロディで締める番組の終わりが、「世界で色々なことが起きている中、今日も自分の部屋で一人ゆっくりと平和に眠ることができるんだ」という幸せ、当たり前すぎて忘れがちになってしまう「平和に感謝すること」を教えてくれていた気がする。勿論、当時はそんな自覚はほとんどなかったし、筑紫さんのファンでも、ましてやNEWS23のファンでもなかった。
けれど、2006年に帰国した際に観たNEWS23から「Put Your Hands Up」が流れてこなかった時、すごく寂しさを感じたのは何故だろうか。 そして今年の初めの3度目の帰国の時、そこにはもう筑紫さんの姿さえ無くなっていた。その後8月に帰ってきた時にも、やっぱり彼の姿は無かった。気付けば家族が番組を観ていることもなくなっていて、僕も別段チャンネルを変える気にもなれないまま、先日彼の悲報を知った。
時代はもうストックじゃなくてフローを求めてるというのに 未だに僕ら「君の常識は僕の非常識」 いくら調和を求めたって、 君のイエスは僕のノー 僕のゴーは君のストップ だからもう一度 ストックじゃなくてフローだ We must know this, we must now fucking understand this.
通い続けたカフェもこの通り緑に飾られ呼吸してた。 兼六園の緑は21世紀美術館を彩り、大いに気分が良かったことも脳裏によぎる。アメリカの州立公園でもそれは顕著だ。 もちろん州立公園や三大庭園とは費用の懸けようが違うがそこはフランス流、世界は意識で変わる。で、とりあえずガーデニングを始めました、というお話。This is a love supreme. What I have is always supreme, and yours too. Think more about it.
十数年前にアメリカという幻想に犯されたガキが、やがて身長も電車内で一番くらいになるくらい充分に育つとやがて憧れに向かって飛ぶ時を迎え、それなのにいざ念願の旅立ち直前になれば、そんな時に限って地元を初めて「家のようだ」とサウダージを感じてしまい、されど仲間を背にも旅立つしか道は無く、やがて気付けばあの壮大なウィスコンシンが時間と仲間とともにだんだん「家」のような深みを持ち始め、ニューヨークへ越せば今度は色々な意味での「家」を持ち、そして気付けば米国経済後退とともに昔の我が家へ戻ってきてしまった今日。 そんな我が家にいると、階下から聞こえてくる懐かしい食卓の音が夕闇とともに現れる鈴虫の鳴き声で情緒豊かにリミックスされ、素敵な家族の風景が見えてきてやっぱりここに確かな愛着を感じる。でも一方で、日本における過剰なまでのニューヨーク崇拝をメディアを通じてひしひしと痛感し、そして「かつての栄光」とも勘違いできてしまうそれを今となっては回想する事しかできない物質的な何をも持たない24歳の自分には、かつて忌み嫌い放っぽっておいた現実とかが邪魔してきて、そんなの一蹴りしてしまえばいいのに何故かしない、出来ない自分は2、3年前の情景を思い出しながら何故だかすぐふらっと放浪に出てしまう昨日今日。 そしたら今度は、その旅先々で色々なことを見て聞いて感じては感化され、悦や鬱に浸ってはそろそろ真面目に人生を考えたりする。そういう時の心情に見え隠れするキーワードが「郷愁」という意味を含んだ「家」という定義、問いかけだったりする。そして失礼極まりないくらい曖昧な表現をこそっと拝借するならば、それはサウダージではなくノスタルジーという語感が含する郷愁感覚。そんな語感に対する自分の脆さ、脆いからこそ儚く見える情景。そこには何故だかいつもアメリカの情景があって、その時の頭の中を上映してみるとこのJohn Fahey、とくに「Poor Boys Long Way From Homeが流れ出してきて色々と懐かしんでしまうものだから、だったら涙とか出てきちゃう前に「もう家へ帰ろう」と名古屋を後にしたのでありました。
安室奈美恵→My Little Lover→Carpenters→髭→曽我部恵一→中村一義→Feist→スピッツ→久石譲→Kreva
クレバかよ、て感じもしたけれど、この機能は良いかも。 シャッフル機能も決して嫌いではなかったけど、膨大な楽曲量が詰まってるパソコンの場合、ミスチル後の灰野敬二とか、サイモンアンドガーファンクル後の卍ラインとか、気分的によろしくない、或は最低 or 迷惑とも言えるミックスが多く控えていたのでこの新機能には感謝。
全く音楽を聴かずの13時間鈍行の旅第一話は、帰りの13時間中2時間目で早くもiPodを手に取ってしまい、お気に入りのシガーロスのアルバム「Með suð í eyrum við spilum endalaust」を再生しました。「これだよこれ!」と悦に浸っているのも束の間、ふと顔を上げると電車の窓からは山々の美しい風景が並んじゃってて、みんな一斉に「hello!」とか言ってくるもんだから、仕方なく席を立つしかなかった。もうその後は衝動的に電車を降りると服はしっかりと着たまま山まで一直線。麓までしか歩く体力がなかったけれど、そびえ立つ木々の凛々しさと田んぼの青々しさとシガーロスがシンクロしちゃってもうそれはそれは大変だった。人生のすべてが美しくて泣いちゃいそうな、神だろうが芸術だろうが政治だろうがおばあちゃんだろうが、もうすべての生に感謝感謝。そんな気分にまでなってしまった24歳夏のある昼下がりでした。
今年はソロでも傑作「TREES OUTSIDE ACADEMY」を産み出したサーストン•ムーア(Vo./Gt.)は今年でなんと50歳。最近でも「NO WAVE: POST PUNK. NEW YORK UNDERGROUND 1976-1980」の著作を記念し、トライベッカにてリディア•ランチを招待、「TEENAGE JESUS & JERKS」の再結成ライブを率先して実現するなど、相変わらずの社会貢献を果たしている。そう、ニルヴァーナもダイナソージュニアもソニックユースが見初めた、というのも有名な話。
かつてリチャード•ヘルが唄った「ブランク•ジェネレーション」は2008年今日の気分とピッタリ合い、僕らはそのくらい空っぽの世代だからこそ、きっとキレる17歳と当時のメディアに指されていたわけで、今日の日本でも切り裂き事件など数多くの迷事件を巻き起こしている我が世代もようやく書を捨て街へ出る時期がきていると思うんです。米国のドルが下がっているのにも関わらずいつまでたってもドルに勝てない円の敗戦国、不況の手下みたいな国の中で、せっかく頭でっかちに手元に抱えているその破裂しそうな知識も理屈も陳腐なアイロニーも、自立できれなければ、外に向かって表現できなければいつまでたっても僕らアンダードッグなわけで、そうしたらどう考えてもつまらない。FUCK THAT BITCH. 楽しくないだろ。